東京に何年ぶりかの大雪が降った。
我が家から<向こう三軒両隣>の通行路を確保するために除雪した。
近所は、過疎の村のように高齢者が多い。
地元の小学校など1学年の7名しかいない学年もある。
とても、山手線の内側とは思えないくらいだ。
二世帯住宅は建っていても、子供世代が同居していない。
一方で、80歳以上が町内だけで20人以上住んでおられる。

そんな関係で、60歳の還暦は、小僧なのである。
防寒具に身を包み、3回にわたって除雪した。
やっても、降り続けて通行路が消えてしまう。
そして、また、実はいい運動だと思っているので、苦にならない。
ちょっとした汗も清々しい。

昨日の深夜から止んだ雪は、朝になったら昨日より、積み増し状態になっている。
近所の94歳のおばあちゃまが転倒して骨折でもしたら大変だから、おばあちゃんの玄関先から最優先で除雪した。

そんなことをしていると、ひとりの欧米系の青年が、「ありがとう」と言いながら通過していった。
正直なところ、「いいえ」と返すのが精一杯なぐらい不意を突かれた。
昨日から何人も通過していくのに、お礼らしいお礼は、何人も居ない。
外国人は初めてだった。
高齢の女性が「お世話様です」と言いながら通過されたのがふたり居ただけ。
この付近は都心に近いので中国人をはじめとしてアジアの人々がとても多い。
中国語を話しながら2人の男性と1人の女性の3人組が通過した時など、何回も振り返りながら、首を傾げている。
とても不思議なのか、理解できないのか、そんな反応である。
何の儲けにもならない。くたびれ儲けというレベル。
中国人には理解できないのかも知れない。

日本人の<向こう三軒両隣>という常識は、中国の古典『論語』が日本の寺子屋の教科書として採用され、当時の知識階級が学んだことがその原点であると思われる。
以来、先祖代々の常識として、日本では国民の多くに定着している。

引越しする時も、<向こう三軒両隣>には、何かを持ってご挨拶に行くのは、誰が教える訳でもないが常識になっている。
以前にも、このブログで書かせて頂いたが、中国四川省において大地震があって日本の救援隊が現地に行き、ご遺体を掘り出した時、日本からの派遣隊は、ヘルメットを脱いでシャベルを置き、両手を合わせて合掌した。
この所作は、誰が教えた訳でもない。
マニュアルに書かれているわけでもないだろう。
ご遺体に手を合わせ、冥福を願うことは日本人としての基本的な所作であろう。

しかし、中国メディアは、日本人は中国人に敬意を払った、として翌日の朝刊トップ記事に写真入りで紹介された。

国民の中に脈々と根付く常識、価値観など、日本が論語という昔の中国の古典から学んでいるのに、その発祥の地である中国の常識が、日本人には理解できないことが多い。

中国共産党の実施した文化大革命が、文化大破壊でなければ良いと思うし、漢字同様に意味通じる隣人であり、利己の利益にならないことはしないとか、騙す奴は要領が良くて利口。騙される奴が馬鹿、というような価値観が改善されると良いのではなかろうか。

日本人の秩序正しく、駅の混雑でも並んで待つ姿勢。
我先に先を奪い合う中国。
アジアの国々の中には、日本人観光客は歓迎するが、タオルからドライヤーまで無くなる中国人観光客はお断りというホテルさえある。

論語の精神は、何処へ行ったのであろうか。
最近の日本の青年にも、そのような傾向がある。
年長者を敬う精神がないために、息子に成りすまして年寄りを騙す、オレオレ詐欺など象徴的である。

近所は、皆さん私より年長者であり、70代や80代の年長者がシャベルを持って除雪していたら、年寄りにさせて申し訳ない、と飛んで来て若者が汗をかく国だったはずである。

政府が道徳の時間を設け、日本の常識を教えようとしている。
ある意味で遅きに失した感もあるが、必要不可欠のように思う。
教育とか躾など、世間様に申し訳ない、などという倫理観など、重要に思えてならない。

そんなことを考えながら、除雪していると、両耳にイヤホンを付けた青年が「どうも」と言いながら、通り過ぎて行った。
礼の言える日本人青年と知ってホッとした。