先日、親戚の叔母が小宅にお越しになり、しばらく歓談していた会話の中で、「私は主人から3人の子供を授けて頂いたから、幸せな老後を送ることができ感謝していますよ。」との一言があった。<授けて頂いた>というフレーズが、何とも違和感に近い印象で、耳に残っていた。

そんなことがあってから数日後、山手線のある駅から地下鉄線に乗り換えようと歩いていると、「まじ。まじっぃ。できちゃったのよ子供。」という携帯電話で相手とやり取りしている若い人の会話が大きな声で、私の耳に飛び込んできた。

<授けて頂いた>という言葉と、<できちゃった>という言葉と、あまりの時代の変化というか、人それぞれというか、言葉のニュアンスの違いに驚いた。

私も決して若くはないが、<授けて頂いた>という、『授ける』を辞書で調べれば、上の人が下の者に与えるという、上下関係を前提としていることが分かるので、男女平等の時代にはそぐわないと思われるけれど、『授けて頂いた』という受け止め方は、<感謝>の概念があり、大切に育てることが余韻の中に含まれているように思われる。

叔母が特別に男尊女卑の考え方を持つのかというとそうでもないし、元々世間一般においても、「子供は神様からの授かりもの」という言葉が日常会話の中にもあった。神様だから、授かりものなのだと思うけれど、一般的にありがたい、めでたいという概念が通用していたように思われる。

もし、従弟たちが、叔母のもとで育てられていなかったら、「できちゃった」という親に育てられていたら、どこまで幸福な家庭だったのか、推察するすべもない。

少子化時代に、不妊症の問題もクローズアップされ、様々な方法でやっとの思いで、「授かった」母親の皆様もいらっしゃるはず。
この国を良くするのも、悪くするのも、教育に資するところが大きいと思われるので、どうか我々の宝物として、厳しくも大切に育てて欲しいと思う。