日本の建築は、その随所に建築物の一部に取り込んでしまったものがある。例えば、畳は奈良時代には天皇の寝具として、『御床畳』というのがあった。
その後に平安時代になってから、座布団のように、1人分の敷物であった。このように使われ方が長かった。
それが、鎌倉時代になって『書院造』という建築様式が完成すると、部屋の真ん中を残して周囲だけ敷いていた畳が前面に敷かれるようになったそうだ。当時は富の象徴で一部の貴族だけであり、都心部での普及は江戸時代の中期であり、農村部まで畳が浸透するのは最終的には明治時代になってからという記録がある。
座布団のような敷物からスタートしたモノから、<建築化>して内装の一部になったという解釈が成り立つ。
灯りなども、手許にあったものから照明器具となって天井や壁面の一部として組み込まれて照明器具となり、モノからの<建築化>と言える。
現代の階段下が収納として活用されているのも、昔の階段箪笥が建築化した結果だそうだ。このように色々のものが<建築化>されることで取り込まれている。
弥生時代の米蔵は、高床式で柱の上に建物が乗っていた。そして、すべての柱には≪ネズミ返し≫が付いていた。柱は登れても、大きな平面があるとネズミが登れないことを当時の人間は知っていて、それを建築の一部として<建築化>していた。
折角、当時の人間の英知が、建物の一部として<建築化>され、ネズミに関する機能を持っていたのに、高床式がなくなると同時に、<ネズミ返し>という機能が失われたようだ。
現代の倉庫などでは、トラックの荷台の高さに合わせて、高床式(?)の建築になっていることが多いが、<ネズミ返し>がなくなっている。ネズミは階段を駆け上り、倉庫内に侵入してくる。
最新鋭の倉庫が、柱形式の高床式にならないように、仕事が無くならないように、神様にお祈りして寝ることにしよう。