所用で出かけた場所のそばに、網敷天神社という神社があった。境内に入って左側で手を清めてから本殿へ、お賽銭を投げ入れようとしたら、閉まっている。
と思いきや、お賽銭を投げ入れるための箇所だけ、小窓になっていて開いている。よく考えたものだ。大阪の独創性や柔軟性を感じた。

東京と言うか、関東と言うか、ほとんどの神社は、入り口部分が大きく開いている。弊社では、頂戴するネズミの命にも、魂があると考えて、神社にて供養し、お祓いを受けているが、その神社も入口部分は大きく開いている。

入れば良いのは、お賽銭だけ。ホコリも不必要なら、泥棒も入らないでほしい。そうすれば、お賽銭だけ入る、小窓を用意すれば良い。障子のような引戸の一部を、開口部とし縦方向に、数センチのがっしりとした(防犯を感じる)縦方向の格子が入っていて、投げ入れる開口は、数センチ開いている。

これは、実に合理的だと感心した。ちゃんと不合理もわきまえている。ろうそくに代えてろうそく型の灯が、左右対称に点灯している。つきっぱなし。電気代が不合理のようだが、お賽銭を投げ入れた瞬間にセンサーが感知して、灯が点灯するような合理性は、宗教の世界には似合わない。

そう言えば、先ほどのお賽銭を投げ入れる部分の異なるデザインをイメージしてみたが、自動販売機のコイン投入口のように、縦長の幅2ミリ程度の投入口では、神様のところに届きそうもない。差し入れるのではなく、投げ入れるという習慣が定着している。

格子も木製だから良い。アルミ製では動物園のオリのようだ。イメージとデザインと合理性と不合理、大阪人は分かっている。改めて確認するあたり、分かっていないのは私だけかも知れない。