先日、あるお宅にお伺いした。三度目の駆除作業であり、そのお宅のお孫さんふたりが、お婆ちゃまのお世話を甲斐甲斐しくされている。とても現代のお嬢さんには珍しく、手馴れていて頼もしい限りだ。こんなお嬢様も居る所には居るのだと改めて感心した矢先、「だってお婆ちゃま、何も言ってくれなかったでしょ。」という言葉が妙に気になり、耳のどこかに残っていた。
お婆ちゃまには、軽度の痴呆症があるようで、ついさっきの質問を3分後に繰り返していたり、同じ言葉で挨拶されたり、あなた達は電気屋さんですか。と繰り返し聞かれたり、そんなお婆ちゃまを相手に、「だってお婆ちゃま、何も言ってくれなかったでしょ。」という言葉が何となく、つらい思いにさせたし、あのお孫さんから聞きたくなかった。
そんな折、今度は別の現場で、まったく異なる状況の話であるが、弊社の従業員が、あるモノを移動せずに閉鎖工事を実施した。私は、「どうして移動してあげなかった。」と聞くと、「だって、頼まれていませんから。」続いて、「頼まれてもいない物を移動して怒られても困るし。」というのです。
頼まれなくても、相手が望んでいることぐらい分かりそうなものだが、・・。それとも、手の掛かることを嫌ったことの言い訳だろうかとも、疑ってみたが、やはり、本当の答えは<察する>という神経や感性が薄れているように思われる。
契約社会の欧米なら、話として理解できる。依頼した、依頼していない。意思表示の有無を問うし、すべての論拠となる。明解で分かりやすいようだが、<察する>という文化は個人主義の国々にはない。
弊社のお客様の場合も、ネズミ駆除の業務に直接関係ないことは、頼み難いのかも知れない。契約外の行為だからであろうか。
お婆ちゃまには、お年寄りとしてのプライドがあったり、若い人に迷惑を掛けたくないという配慮や遠慮があったり、それなりに頼み難い思いが働いて、口にしなかったとも考えられる。
しかし、日本語には、「言わずもがな」とか、「言わぬが花」という言葉がある。いずれも背景には<察する>という美しい気配りがあり、頼まれなくても<察して>させて頂くことが本当の意味で日本人の素晴らしさだと思えてならない。
気付きの背景には、気付いてくれるという、甘えの構造も存在するように思う。しかし、個人主義の欧米と違い、農耕文化で近隣といっしょにそれぞれを思い遣って和を形成しながら生き抜いてきている日本の文化を今一度若い人達に説明しなければならない時代になってしまったことを残念に思う。
従業員に不正や違法行為が合った場合、日本では社長などが記者会見して、「世間様をお騒がせして誠に申し訳ない。」と謝罪する。欧米人には理解不能であり、翻訳に困る。世間様とは誰のこと。社長は悪くないのに、なぜ社長が誤るのか。損害賠償責任を認めてしまうのか、もう欧米人の頭はパニックに近いぐらい赤ランプだらけである。
世間様に申し訳ない、と社会に対する<恥>の文化があるのではないでしょうか。東日本大震災で、略奪行為などがひとつもなかったと欧米のニュースは取り上げました。世間様が最近では希薄なものになり、自分さえ良ければという風潮が広がり、守って欲しい日本の素晴らしさもグローバル化っていうヤツですかね。なくなりつつあるように思えて残念です。