先日、1審の判決で死刑だった被告人が、無期懲役になった。
殺人罪、窃盗罪、脅迫材など、多種多様な7つの罪状も合わせて起訴されている犯人である。

1審は裁判員裁判の判決として死刑だった。
ところが、2審は、統計的に1人しか殺していないから、無期懲役だという結論になっている。
実に機械的、いや統計的である。

事件というのは、同一の物がない。
例えば、フランスなどでは、同じ泥棒でも昼間のスキを狙ったのと、深夜に忍び込んだのでは、まったく罪の重さが違う。
裁判員制度だって、人間の感性や感覚による判断で結論が出ることを当然読み込んだ上で採用しているはずなのに、一律に、過去の判例という名の統計的な基準で、無期懲役が妥当という2審の判決は、裁判員制度そのものを司法が否定してしまっているのではなかろうか。

たとえ、素人集団でも、裁判員達は過去の判例も調べた上で、それでも比較して許せないとか、見せしめとか、遺族の恨みを考えると、などの種々の素人的な要素、言い換えれば、人間の本性によって裁いているはずである。

ましてや、多くの裁判員は、日常生活の中から時間的にも、精神的にも大きな負担を背負って裁判に参加しているはずであり、2審のプロ法律家だけの過去の数字的基準だけで覆しては日本の新しい司法制度は、根幹から成立しないことになる。

殺害した人数だけで、統計的に判決を下すほど、無能な裁判官が居たことに失意を感じる。
死刑は、命にかかわる重大な判決であり、特別な判断を求めるべきものであるという考え方は、誰でも分かっているし、裁判員の人々も軽々に死刑という結論を見出したわけではない筈だ。
苦渋の決断をしているのは、当然に理解できるし、プロの法律家より死刑には慎重になると思われる。
残忍さ、遺族の怒り、社会的影響など、重視せずに殺害した人数だけで決まるのなら、1審で何人だから、何の刑です。と機械的に決定されてしまうのと同じではないであろうか。

裁判って、そんなものですか。