報道によると、名古屋市の河村市長が中国・南京から来られたお客様に対して、南京大虐殺はなかったと思う、という趣旨の発言をされたそうだ。

このねずみ家チュウ太郎の業務日誌では、政治と宗教の問題は、触れないという基準を自ら持ってきていた。その意味では、その基準に抵触してしまうかも知れないが、前後をお読み頂き、政治の話ではないことをご理解願いたい。

南京大虐殺に関しては、当時の南京市の戸籍、いわゆる人口が30万人も居なかったという説など、否定的な見解を示されている方々は、少なくないと聞いている。(あったとする人々の方が多いと思いますが)
実際は、昔のことで私は知らないし不勉強であり、取り上げて活字にすること自体が不謹慎かもしれない。しかし、私は河村市長の姿勢について、ある一定の評価をしている。
真偽を問い掛け、兼ねてから考えていることを発言することは、言論の自由であり、中国と本当の友好関係を築こうとしたら、双方とも言いたいことを言って、歴史的な検証をすることは間違っていない。
ビジネスの世界でも、同様のことを感じることがある。日本の奥ゆかしさかも知れないが、「前向きに善処したい」と言う表現は、まったくその気がない場合の意思表示、と欧米系のビジネス書には書かれている。翻訳しないと通じない、そんなビジネス会話は、グローバル化にそぐわないと考える。
本音を探ったり、確認したりするような交渉過程は、周到な根回しが伴っていれば、大変結構な方法論として評価するが、昨今のスピード化した時代であり、交渉に要するコストさえも削減されたり、根回しが存在しなくなっているのは、料亭の衰退ぶりを見れば、明らかではなかろうか。
餃子事件の時も、中国は猛反発した。日本国内の犯罪と決め付けた。外交とはそういうものだ、と知ったかぶりするバカもいるが、結果的にはホトボリが冷めてから逮捕者を出して終わる。日本のマスコミもここから本気で大々的に取り上げるなら、国益にも合致するが、中国の代弁だけして終わってしまう、だからすでに冷めていて取り上げないぐらいの時期になって、事実関係だけを小さい記事で報じる。
列車の脱線事故が発生したら、列車を土の中に埋めてしまう、日本では出て来ない発想である。中国の鉄道の幹部は実に優秀な人々によって運営されていると思うが、正しいとか間違っているとか、というレベルではなく、そのぐらい違う人々と付き合い、話し合い、友好関係を持とうというのだから、そういう国と付き合う以上、心して付き合うこと、言うべきことを言うことは、必要なように思われる。
我々のビジネスの世界も、どうでも良い相手なら、濁しても良いが、真面目に付き合おうと考える相手なら、本音をぶつけることも失礼ではないと考える。むしろ、オブラートに包み過ぎて、翻訳を要するレベルでは、時代のスピード感について来れないと思う。